第一部 これは去年の8月にJerbaで結婚式を挙げた長谷川さんの体験記です。 | ||
日本大使館で書類を受取る為、、チュニス経由で行くことにする。チケットの手配も済み、最終確認と思い日本大使館に電話で到着予定を連絡する。 ガァーン、日本大使館は夏の間はお昼1時までで終わり。私の到着予定は11:30。その日中に書類を受取り、夜Jerbaに着かないと間に合わない。出発3日前に、慌てて旅行社と交渉し、予約を換えてもらった。 お盆真っ只中だっただけに、今考えるとよく換えられたものだと思う。何とチケットを受取ったのは出発前日の午後6時過ぎ。 それにしても大使館の人たちはいつ働いているんだろう。年末年始の休みも私よりずーっと長いし・・・。 | ||
空港まで彼が迎えに来てくれた。2人でそのまま大使館に直行。大使館員は電話の対応とはうって変わってとても愛想がいい。 書類を受取り、待たせてあったタクシーで彼のお姉さんの家に行く。彼のお姉さんは「ここがチュニス?」と思うような閑静な住宅街でご主人とかわいい子ども2人の4人で暮らしていた。初対面なので、最初はちょっと緊張したが、クスクスやトマト味のスープ等をご馳走になり、お土産を渡したり、お祝いをもらったりしている間にすっかり打ち解けてきた。初対面の人とこれからは家族になるんだなーなんてちょっと不思議で、他人事のような気もする。 2人の子どもは上が5歳の女の子で下が1歳半の男の子。女の子はとても懐いてきて私の側を離れたがらない。 踊りながら歌をうたってくれたり、友達の事を色々教えてくれたり・・・。下の子は私よりスーツケースに興味深々だった。 私たち2人はお腹もいっぱいになったので、チュニス観光に行く事にした。ブルギバ通りからスークを抜けると、目の前に大きな公園が広がる。そこは小高い丘のようで、チュニス市内(?)が見渡せ、夕暮れ時が特にお勧めの私のお気に入りの場所だ。 そこに2人で行き、のんびりと過ごす。聞こえるのは子どもの楽しそうな声と風の音だけ。なんだかすごく遠くまで来たなぁーとしみじみ実感する。この国が第2の故郷になるなんて嘘みたい。 公園でひとしきり話し込んだ私たちは帰宅時間になったことに気づき慌ててタクシーに乗った。家に戻ると隣の老婦人が私たちの帰宅を待っていた。是非自分の家に遊びにおいでと誘ってくれる。 ちょっと疲れていたが、お言葉に甘えることにした。広くて芝敷きの庭でtea-tunisianをごちそうになる。cafeで注文すると出てくるお茶は、味が薄くてビール用のグラスみたいなのに入っているが、一般的なチュニジアの家庭では何十分もかけて煮出したお茶に大量のお砂糖を入れ、それをナッツ類がいっぱい入ったお猪口のようなガラスのコップで飲む。コーヒーで言うとエスプレッソのようなお茶だ。これは甘渋くて結構おいしい。且つ、油断していると何杯もつがれてしまう。日本人には二杯め以降は厳しいものがあるので、 いらない場合はハッキリ断った方がよい。それができなかった父は、体調を崩してしまったのであった・・・。 ところで、この老夫婦(老婦人にはご主人がいる)の仕事は結婚式の貸し衣装屋さんで、私たちが近々結婚するのを知り、私にいくつか衣装を着せてくれた。彼は喜んで写真をいっぱい撮り、老夫妻と日本に帰ったら写真を送る約束をしていた。でも、いまだに送った様子はない・・・。 ごめんなさい。 | ||
お姉さん達に見送られてTunisをたった私たちは、夜の11時半頃、Jerbaの空港に到着した。彼の家族が迎えに来てくれることになっていたので、空港で待つ。30分以上待つが誰も来ない。彼は「これだからチュニジア人は・・・」と自分もチュニジア人のくせに怒っている。 私の方が逆に「もうちょっと待ってたらその内来るわ」とチュニジア式。しびれを切らした彼が、「もう、帰ろう!!」とタクシーをひらいに道路の方へ歩いていったら、反対斜線から車が到着。中から家族や友達が総勢5人で出迎えに来てくれた。ほっとした私たちは交互に挨拶を交わし、みんなで家に帰った。家の側まで来ると、彼の家の前にはたくさんのいすが並び、夜中の1時ごろだというのに、赤々と電気が点いていた。私は留守中に事故でもあったのかと心配になり、彼に「どうしたの」と何度もたずねた。しかし、彼もわからないという。到着すると、お母さんともう一人のお姉さんが玄関まで出迎えてくれた。 挨拶をして一歩家の中に足を踏み入れると、突然ダルボカ(チュニジアの太鼓)が鳴り出し、女の人達は口々にインディアンの叫びのような甲高い声を出し始めた(これはお祝いの時に既婚の女性だけがする祝福の声だそうです)。何がなんだか良く分からない私はみんなに手を引かれるままに家の中に入っていった。家の中には家族以外は女性だけが入れるようで、10人ほど(子どもから老人まで色々)が、ある人は歌い、ある人は太鼓をたたき、ある人は普通の服の上から腰にスカーフみたいなものを巻き付けて踊ったいた。 その踊りというのが、フラメンコをもう少し優しくしたような感じで、日本に来たら誰もが一流のダンサーになれそうな程うまかった。ソファーに腰を下ろしたものの、あまりのすごさに圧倒された私はただ唖然とみんなを見ているだけであったが、彼はととても嬉しそうに、友人からお祝いにもらった8mmビデオで撮影していた。みんなにお茶とお菓子が振る舞われ、宴は夜の3時ごろまで続いた。やがてみんなが私にも踊るように言い出した。疲れていたのとうまく踊れそうにもない恥ずかしさから何度も辞退したが、是非というので、踊ることにした。その頃には頭の中は全くの白紙状態で何も考えることができず、どうにでもなれって感じで、言われるがままに腰に布を巻き付け踊りだした。宴はいやがうえにも盛り上がりみんな本当に楽しそうだった。いつも思う事だが、チュニジアの人たちは年齢を気にしない。例えば20代の若者が40代の人を友達といい、実際一緒にこうしてうたい踊って楽しそうに時間を過ごす。こういうところはみならいたいなーとつくづく思う。 宴が終わりみんなが帰った後、彼がぼそっと私に一言「花嫁は普通踊らないんだよ」。どんなに言われても花婿が踊ろうと言わない限り自分からは踊らないらしい。早く言ってよ!!。 |
jerbaに着いたのは木曜日の深夜で、翌金曜日朝一番に役所へ書類を提出しに行った。同じチュニジアでも役所によって手続きはバラバラのようで、フームスークでは書類提出後10日かかるが、車で15分ほどのミドゥーンでは5日で済む。その為、私たちはミドゥーンの役所に書類を提出することにした。お父さんとお父さんの友達、彼と私の4人で出かけたのだが、何と役所の係官が「書類の名前が違うので、受け付けられない!!」といった。確かに大使館の人があれほどお願いしておいたにも関わらず、「証明書」とすべきところに「確認書」としてある(書類はワープロで作られている)。もう一度チュニスに戻り書類を作成し直すだけの時間が私にはない。お父さんと友達は一生懸命粘り、「見出しが違うだけだ」とかいって交渉した。しかし彼は堅物らしく、「私だけの判断ではなんともできない。他の人と相談するから外のCAFEで待っているように」とだけ言い残し、どこかに行ってしまった。私たちは仕方なく、役所のすぐ前にあるCAFEで待つことにした。 CAFEでは、珍しくみんな無口で、なんとなく不安を隠せず、彼とお父さんとでチュニスへ戻ることを相談しはじめた。その時、お父さんの(別の)友達がCAFEの前を通りかかった。お父さんは久しぶりに会ったみたいで、友達を呼び止め、私たちのテーブルへ来るように誘った。その人は何をしているのかとお父さんに尋ねた。お父さんが今までのいきさつを話すと、彼は「問題無い。一緒に来なさい」といった。そうです。幸運にも、彼は役所の所長さんで、お父さんは友達でありながら彼の仕事を知らなかったのだ。事態は一変し、私たちは所長さんの部屋へと通され、手続きが完了するまでお茶を飲みながら写真を撮ったり歓談したりして過ごした。 とにかく、これで書類は完了、後は指定の日数が過ぎるのを待つばかりとなった。 | |
翌日から、彼は結婚準備を精力的に行った。普通なら両家がそれぞれ行う準備を彼が全てしなければならないからだ。私は時には彼と一緒に出かけたが、時には家でお母さんの手伝いをした。彼の家はお客さんが多く、常時誰かが遊びに来ていた。お母さんは毎日大量のクスクス、タジン、スパゲティーetc・・・を作った。料理方法を知らない私の仕事はもっぱら野菜の皮剥きと配膳係りだ。お客さんといっても女の子はみんな手伝うことになっているみたいで、わいわいがやがやとみんな楽しそうに仕事をこなしていく。私が黙々と作業をしていると、「どうしたの?気分でも悪いの?どうしてしゃべらないの?」と心配されてしまう。のんびり型の私には非常に心地いいリズムでゆったりと時間が流れていくのであった。 チュニジア(Jerbaだけ?)の家の庭には一部床を高くして屋根無しの部屋の様にして有る場所がある。Jerbaの夏、昼間は特に暑いが陽が落ちると外は結構涼しい。そのため、夕方になるとどこの家でも庭に出てみんなでお茶を飲み、おしゃべりをし、時には食事もそこで取り、夜がふけてくるとダルボカをたたき歌い踊る。お母さんはそこに七輪を持ち出し、お茶を作り、お客さんに振る舞う。夜になると若い女の子達もたくさんやってきて、みんなで一緒にお菓子をこねて整形し、オーブンへと運ぶ。焼きあがると専用のかご(小型のドラム缶)の中にどんどん入れていく。これが結婚式用のお菓子になるのだ。Jerbaの結婚式は通常最短3日最長7日にわたって行われる。私たちの場合は私の仕事の都合上2日しかないので、みんなとても残念そうで、さみしいからといって、結局結婚式までの数日間毎晩友達が集まり、3時ごろまで歌い踊ってくれたのであった。(嬉しかったけどちょっと疲れた・・・) ほとんどの準備は友達やご近所の方々も手伝ってくれたのだが、一つだけ家族にしかできないことがあった。それがボンボンの準備である。ボンボンというのはアーモンドを色付けした砂糖でコーティングしたもので、日本ではドルチェという名で売られている。あれを買ってきてハート型の小さなパッケージに3個づつ詰め、当日来てくれた方々に手渡すのだ。これだけはお母さん、お姉さん、私、お姉さんの婚約者のお母さんだけで作業した。200個ぐらいは作ったと思う。 |
なぜこの項目がこんなところで出てくるかというと、私たちの新婚旅行は式よりも前で、且つマトマタへの日帰りバス旅行になったからだ。本当はタタウィンに行こうねと決めていたのだが、何しろ私の滞在日程が短く、ツアーは毎日ある訳ではない。彼の友達で旅行社に勤めている人がいて、いろいろあたってくれたが見当たらず、結局はその友人がマトマタ旅行をプレゼントしてくれることになったのだった。バスは朝7時に旅行社(彼の家から歩いて15分ぐらい)から出発し、いくつかのホテルを経由し、その度に数人の旅行者をピックアップした。ドライバーはガイドも兼任しているらしく、片手にマイクを握りフランス語とドイツ語で名所(?)の説明をしながら結構なスピードで車を走らせていた。マトマタに着くまでにいくつかの町で休憩が取られた。それぞれの町にはお土産物屋があり、ヨーロッパ人旅行者の顔を見ると寄っていっては何かを売ろうとしていた。彼らの目に私たちはどう写ったのだろうか?私の事を珍しげに見る人はいても、私たちに何かを売ろうとする人はいなかった。彼は「たばこでも、こういう所では買いたくない。ものずごく高いし不潔だ」といっていた。しかしそんな事を言ったので罰があたったのか、偶然にもその町でたばこが切れてしまい、ヘビースモーカの彼は、結局そこでたばこを買うはめになった。 やがてバスはマトマタへと到着した。チュニジアでは平地しか見たことのなかった私は、マトマタも平地だと勝手に思い込んでいたが、いってみると実はかなり急な山だった。マトマタの人々はその斜面に横穴をあけ住居としているのだ。私はロングスカートをはいていたので、頂上まであがるのは結構きつかった。行く道々、家がいくつかあり、子供たちがロバを引いて近づいてきた。観光客を乗せたりするらしい。彼はいつもの事だが熱心にビデオを撮っていた。頂上からみるチュニジアは予想に反して所々緑がみられ、美しかった。降りていく途中の家では老婆が観光客を手招きし、自宅を見せていた。彼が言うには、「貧しいのでこうするしかお金を得る方法がない」との事であった。彼はその老婆に何か言葉をかけると1TD手渡していた。家の中は白壁でひんやりとして心地よく、外見よりは数段に快適そうだった。冬は逆に暖かいそうだ。奥ではお嫁さんだろうか、若い女性がお昼の準備をしているところだった。彼にとっても珍しいみたいで、彼女に何か色々質問をしていた。数分そこの家を見学した後、山のふもとにあるレストランで昼食をとることになった(それもツアーの一部)。レストランでは6〜8人がけのテーブルで同じツアーの参加者同士が同席するようになっているらしかった。適当に着席すると、直ぐにチュニジアン・サラダが出てきた。これはトマトや玉ねぎやピーマンといった野菜を荒くみじん切りにし、酢とオリーブオイル、塩等で味付けしたもので、必ずミントより少し香りが柔らかい香草が入る(チュニジアではその辺に生えている)。このレストランの味はイマイチだったが、私はお腹がすいていたのでそれなりに食べた。しかし元々小食の彼はあまり食べなかった。その後クスクスも出てきて、同席の人たちがみんなわいわいと食べはじめたのに、彼は熱心に今撮ってきたビデを見直していた(液晶の画面がついているビデオなので)。それを見たフランス人たちは液晶付きのビデオを初めて見たみたいで、一様に驚いて、私たちの周りに集まりだした。彼はそれが嬉しいらしく、自慢げにみんなにビデオを見せはじめた。その為、私たちが2日後に結婚すること、これが新婚旅行代わりであることがツアー客みんなに知れるところとなった。それからは、みんなとても私たちに優しくなり、口々に「おめでとう」「お幸せに」といってくれ、帰り道では写真を撮ってくれたりもした。 今回の旅行で知ったのだが、液晶画面付きのビデオカメラは、ヨーロッパではまだ大変珍しいらしい(チュニジアではもちろん!!)。液晶画面を開くたびにヨーロッパ人が集まってきた。その為、その後、私たちの結婚式のビデオは何十人もの見知らぬ人々に見られることになるのであった。 | |